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あの頃のままに優しさだけを乗せて紡がれる名前。ねぇ、俺はどんな風に貴方の名前を呼んでたっけ? ―只今休止中
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音楽家にはそれが出来る、そうあるべきだ、と俺は思う。譜面から分かる彼等の思い、当時の音楽性から分かる彼等の意図、人物像からわかる彼等の癖。五感で感じる曲調。曲は生き物であり、作曲者の生きた魂のようだ。

朝。誰もいない客席と誰もいないステージの上で一心不乱に音だけを追う。相棒のヴァイオリンで理想の音へ近づいていく。曲目は午後からの定演で演奏する第九。うちは四年に一度第九を演奏するのが習慣で、この大学に入って三年目にしてようやく回ってきたのだ。音響の良いステージはやはり違って、普段の練習も良いが、たまにステージのこの響きを感じたくなる。最終楽章まで一気に弾き切ってヴァイオリンを降ろすと、軽やかな拍手がひとつ。

「お早いですね、アーサーさん」
「おまえもな、菊」

いつの間にか客席の一番奥にオーボエの菊が来ていた。俺が演奏に夢中になっていた点を考慮しても、こいつの気配無さは異常だろう。急に現れるのには未だに慣れない。

「いつからいたんだ?」
「最初から」
「………」
「冗談です。最終楽章あたりからですよ」

全く気づかなかった。聴かせるつもりでない音を聞かれるのは少し恥ずかしい。しかし珍しい。俺は演奏会の日は早く来ることをジンクスみたいにしてるからこの時間からいるが、菊は来る早い方だがここまで早い時間帯には来ないはずだ。

「流石ですね」

思わず聴き入ってしまいました、そう言う彼は客席からゆっくりこちらへ向かってくる。どうやら楽屋に寄らずにここへ来たようで荷物を持ったままだ。ステージ端の階段を登って音一つ無く自分の場所へ。ちなみに俺も自分の指揮者台横の指定席にいる。
菊と話すのは久しぶりだ。ここ最近は弦楽器の連中(特にアル。昨日のゲネプロでも温度変化のせいで弦が外れて一騒動だった)と一緒にいることが多く、専攻も違うので授業でも会うことは無かった。丁寧に組み立てられていく楽器を眺めつつ考える。最後に話したのはいつだっただろうかと。そして気付いた。

「菊」
「はい」
「すまない」
「…どうかしましたか?」
「いや、ここ最近全然話していなかったなぁと…」
「あ、気づかれましたか。でも大丈夫ですよ」
「?」
「私も今朝気付いたんです。お互い様ですよ」
「…そうか」

まぁ、お互い定演の事で頭が一杯だったということだろう。なんといっても一大行事なわけだしな。弦が弦で練習していたように管は管で練習があったわけだろうし。ん?今朝気付いた…、ということは。

「なぁ、菊」
「はい」
「今日は、随分早いんだな」
「そうですね」

あぁ、やっぱり。声こそ普通だが楽器を組み立てる指が微かに震えたのを俺は見逃さなかった。菊は最近俺と話してない事に今朝気付いて、そして俺が朝早く来てることを知ってる。つまり。

「菊。明日、どこか行こう?」
「…、美術館が良いです」

行きたい展覧会があるんです、と嬉しそうに笑った。なら決定だ。楽しみだな。話すのが久々なら、二人きりで出掛けるのも久々だ。
楽器を組み上げた菊が、リードを水から出して軽く吹く。特有の音が鳴って、それを差し込んだらオーボエは完成だ。

「音合わせします?」
「だな。頼む」

まだまだ皆が来るまで時間がある。明日の前に今二人で音楽を楽しむのも悪くない。聞こえてきたAの音は正確で美しく、それを頼りに先ほど弾いている間に多少ズレてしまったのを調整する。ネジを閉めて緩めて、弓で弾いて、手元で微調整。ぴたりと合ったところで他の音も合わせていく。
明日の事よりもまずは今日の演奏会。お互い思いは一緒のようで、直ぐに譜面と向き合って俺達は音を奏でた。

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